天正13年(1585年)2月、秀吉は小早川隆景に対し、毛利水軍を岸和田に派遣するよう命じた[58]。これを受けて、隆景は3月1日に自ら出発の準備を行い、まもなく隆景率いる毛利水軍が出陣してきた。
秀吉の紀州攻めに際し、顕如は信徒に秀吉への帰順を呼びかけた3月9日、秀吉は貝塚寺内に対し禁制を発行して安全を保障した。同日、秀吉正室の侍女孝蔵主を貝塚本願寺へ派遣し、親睦を深めた。
同月上旬、秀吉は木食応其を使者として根来寺に派遣し、応其は拡大した寺領の一部返還を条件に和睦を斡旋した。斡旋案に対し根来衆の間では賛否分かれたが、反対派は夜中に応其の宿舎に鉄砲を撃ちかけ、このため応其は急いで京都に向かった[59]。
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ついに秀吉による紀伊侵攻が開始された。上方勢は秀吉自ら指揮する十万、先陣は甥の羽柴秀次、浦手・山手の二手に分かれて二十三段に布陣した[60]。さらに多数の軍船を揃えて小西行長を水軍の将とし、海陸両面から根来・雑賀を攻めた。これに対し根来・雑賀衆は沢・積善寺・畠中・千石堀などの泉南諸城に合計九千余の兵を配置して迎撃した。
3月20日、先陣の秀次勢は大坂を発し、貝塚に到着。21日、秀吉は大坂を出陣し、岸和田城に入る。同日、先陣諸勢は泉南城砦群に接近したが、既に昼を過ぎていた[61]ことから即日攻撃か翌日に延期するかで議論になった。中村一氏が「これだけの兵力差があるのに攻撃を延期するのは他国への印象が悪い」と即時開戦を主張したため、直ちに戦端が開かれた。
千石堀城攻防戦
千石堀城の戦い
泉南の根来・雑賀城砦群の図
戦争:安土桃山時代
年月日:天正13年(1585年)3月21日
場所:和泉千石堀城
結果:千石堀城陥落
交戦勢力
羽柴秀吉 根来衆
指揮官
羽柴秀次、筒井定次、堀秀政など 大谷左太仁または愛染院、福永院
戦力
18,000以上[62] 約1,500+非戦闘員4,000以上
損害
1,000以上 非戦闘員含め6,000以上
まず防衛線の東端にあたる千石堀城で攻防が始まった。千石堀城に籠るのは城将大谷左大仁[63]以下根来衆の精鋭千四、五百人、他に婦女子など非戦闘員が四、五千人加わっていたとされる[64]。攻める上方勢は羽柴秀次を主将に堀秀政・筒井定次・長谷川秀一の諸将だった。
筒井・長谷川・堀勢ら一万五千人が進撃すると、城兵五百余が討って出て横合いから弓・鉄砲で奇襲を仕掛けた。「城内より鉄砲を放つこと、平砂に胡麻を蒔くがごとし」[65]という猛烈な射撃により、上方勢は多数の死傷者を出した。筒井勢などは傘下の大和衆・伊賀衆を合わせて八千人で戦闘に臨んだが、城兵の銃撃の前に死傷者は数千人に上り、進撃を阻まれた。
味方の苦戦を見て、羽柴秀次は千石堀城がにわか造りゆえに防備は十分でないと推測し、田中吉政・渡瀬繁詮ら直属の将兵三千余を側面から城に突撃させた。しかしこれも城方の弓・鉄砲の反撃にあって多数の討死を出す。秀次は自身の馬廻も投入して二の丸に突入させ、城兵三百余を討ち取ってさらに本丸を攻めるが、またしても城兵の弓・鉄砲により阻まれた。一連の攻防により、秀次勢の死傷者はわずか半時(約一時間)の間に千余人に達したという[66]。
この時、筒井勢のうち中坊秀行と伊賀衆が搦手に迂回して城に接近し、城内へ火矢を射込んだ。この火矢が城内の煙硝蔵に引火爆発したため城は炎上、これが致命傷となり落城した。城内の人間は焼け死に、討って出た城兵はことごとく戦死した。秀吉は人も動物も皆殺しにするよう厳命し、城内にいた者は非戦闘員はおろか犬猫に至るまで全滅した。
積善寺・沢城の開城
畠中城では、日根郡の地侍・農民らからなる城兵と中村一氏が対戦した。千石堀城が陥落した21日夜、城兵は城を自焼して退却した。
同じ日の夕刻、防衛線の中核たる積善寺城でも戦闘が始まった[67]。井出原右近・山田蓮池坊らの指揮する根来衆からなる城兵に対し、細川忠興・大谷吉継・蒲生賦秀・池田輝政らが攻撃を担当した。城兵は石・弓・鉄砲を放ちながら討って出て、寄手の先鋒細川勢と激戦を繰り広げた。細川勢の犠牲は大きかったが、蒲生勢も戦線に加わり松井康之を先頭に攻撃して城兵は城内に引き籠った。翌22日、貝塚御坊の住職卜半斎了珍の仲介により積善寺城は開城した。
西端の沢城でも戦いが始まっていた。城を守る雑賀衆[68]を攻めるのは高山重友・中川秀政の両勢である。ここでも押し寄せる上方勢に城兵の鉄砲という図式は変わらず、寄手の負傷者は多数に上った。中川秀政は自ら陣頭に立って攻城に当たり、二の丸を破って本丸に迫った。本丸に追い詰められた城兵は投降を申し出、秀吉の許可の元に羽柴秀長が誓詞を入れ、23日に開城した。
沢城の開城により和泉の紀州側城砦群は全て陥落した[69]。
根来・雑賀衆の敗因
根来・雑賀の鉄砲衆は、その質量両面において戦国時代随一の鉄砲隊だったと言ってよい。だが、彼らが守りを固めていた和泉の前衛城砦群は、上方勢の攻撃開始から三日間で崩壊した。これは紀州側にとって完全に見込み違いの結果だった。
戦国大名が戦う第一の目的は自領を維持し、あわよくば拡大することにある。であるから、戦うたびに大きな犠牲を払うような不経済なことは極力避けたいというのが彼らの心理であった。ゆえに戦闘において前衛が大損害を被れば、それ以上無理押しをしないのが彼らの常識的な対応だった。根来・雑賀衆は、相手がどれほどの大軍であっても、先陣を切って攻めてくる敵の精鋭さえ撃ち倒してしまえばそれで敵を退けることができると考えていたが、これはできるだけ犠牲を出したくない戦国大名の心理に依拠するものだった。
だが、秀吉にはそのような戦国時代の「常識」は通用しなかった。既に他大名を圧倒する国力と兵力を有していた秀吉は、どれほど犠牲を払おうとも一切無視して大軍でひた押しにする戦法を採ったのである。何人撃ち殺されても決して退かず、数を頼りに突撃を繰り返す大軍の前に、いかな精鋭の鉄砲衆といえども寡勢の紀州勢には抗する術はなかった[70]。
根来・粉河・雑賀炎上
国宝の根来寺大塔。焼失をまぬかれたが、当時の弾痕を残している
再建後の粉河寺本堂3月23日、和泉を制圧したのを見届けて秀吉は岸和田城を発する。同日根来寺に入るが[71]、その夜根来寺は出火して炎上し、本堂、多宝塔(大塔)や南大門など一部を残して灰燼に帰した。根来寺は三日間燃え続け、空が赤く輝く様子が当時貝塚にあった本願寺から見えたという。根来寺炎上の原因については、根来側による自焼説[72]、秀吉による焼き討ち説[73]と兵士による命令によらない放火または失火説[74]がある。
同日、もしくは翌24日には粉河寺が炎上した[75]。
少しさかのぼって22日、有田郡の国人白樫氏に誘われて上方勢に寝返った雑賀荘の岡衆が同じ雑賀の湊衆を銃撃し、雑賀は大混乱に陥った。同日土橋平丞は長宗我部元親を頼って船で土佐へ逃亡し[76]、湊衆も船で脱出しようとしたが、人が乗りすぎて沈没する船が出るなどして大勢の死者が出た。翌23日に上方勢の先鋒が雑賀荘に侵入し、24日には根来を発した秀吉も紀ノ川北岸を西進して雑賀に入った。同日、上方勢は粟村の土橋氏居館を包囲した。また上方勢は湊・中之島一円に放火し、他の地域もおおむね半分から三分の二は焼亡したが、鷺森寺内及び岡・宇治は無事だった[77][78]。こうして雑賀荘は「雑賀も内輪散々に成て自滅」[79]と評される最期を遂げた。
そんな中、25日には秀吉は紀三井寺に参詣する。
紀南の制圧
雑賀衆残党が太田城に籠城し、上方勢の本隊は太田城攻めに当たった。その一方で仙石秀久・中村一氏・小西行長らを別働隊として紀南へ派遣し、平定に当たらせた。
上方勢の紀州攻めを前に、紀南の国人衆の対応は分かれた。日高郡を中心に大きな勢力を持っていた湯河直春は抗戦を主張したが、有田郡では神保・白樫氏が、日高郡では直春の娘婿玉置直和(和佐玉置氏)が湯河氏と袂を分かって上方勢に帰順した[80]。このため湯河直春はまず白樫氏と名島表(現広川町)で戦い、続いて玉置氏の手取城(現日高川町)を攻囲した(坂ノ瀬合戦)[81]。
有田郡は紀伊守護の家格を持つ畠山政尚・貞政父子の本拠である。畠山氏は実権はないものの、秀吉との抗争に当たっては根来・雑賀衆に名目上の盟主として担がれており、上方勢の攻撃対象になった。そして畠山被官の白樫・神保氏は前述の通り上方勢に寝返った。3月23日以降25日以前に、上方勢は畠山氏の支城鳥屋城(現有田川町)を攻め落とし[82]、さらに本拠の岩室城(現有田市)も陥落して畠山貞政は敗走した[83]。
日高郡でも3月23、24日頃には上方勢が来襲し、湯河領に侵攻した。直春は防ぎ難いとみて小松原の居館も亀山城(いずれも現御坊市)も自焼して逃れ、伯父の湯河教春の守る泊城(現田辺市)へ後退した。しかし泊城にも仙石秀久・杉若無心が攻め寄せ、28日までには城を捨てて退却し、龍神山城(現田辺市)を経て熊野へと向かった。田辺に入ってきた上方勢三千余は同地の神社仏閣をことごとく焼き払い、その所領を没収した。
牟婁郡(熊野地方)では、口熊野の山本氏が湯河氏に同調して徹底抗戦した。上方勢は泊城占領後に二手に分かれ、杉若無心はおよそ一千人[84]を率いて山本康忠の籠る龍松山(市ノ瀬)城(現上富田町)に向かい、仙石秀久・尾藤知宣・藤堂高虎は千五百の兵で湯河勢を追った。
4月1日、仙石ら三将は潮見峠(現田辺市・旧中辺路町)において湯河勢の反撃を受け、退却した。同じ頃、杉若勢も三宝寺河原(現上富田町)で山本勢に敗れ、討伐戦は頓挫する。だが湯河・山本勢にも上方勢を駆逐するほどの力はなく、この方面の戦いは長期化することになった。
一方奥熊野では、新宮の堀内氏善が4月13日以前には降伏したのを筆頭に、高河原・小山・色川氏らはいずれも上方勢に帰順し、それぞれ本領安堵された。また口熊野でも安宅氏は帰順した。
高野山降伏
4月10日、秀吉は高野山に使者を派遣して降伏を勧め、これまでに拡大した領地の大半を返上すること、武装の禁止、謀反人を山内に匿うことの禁止などの条件を呑まねば全山焼き討ちすると威嚇した。高野山の僧侶たちは評定の結果条件を全面的に受け入れることに決し、16日に客僧の木食応其を使者に立てた[85]。応其は高野重宝の嵯峨天皇の宸翰と空海手印の文書を携え、宮郷に在陣中[86]の秀吉と面会した。応其の弁明を秀吉は受け入れ、高野山の存続が保証された[87]。その後、10月23日までには高野山の武装解除が完了した。
この結果高野山は滅亡を免れ、太閤検地終了後の天正19年(1591年)に一万石の所領を安堵された。また木食応其個人に一千石が与えられた[88]。同20年(1592年)、大政所追善に当たって剃髪寺(のち青巌寺、現在の金剛峯寺)を建立した際に秀吉から一万石寄進されたため計二万一千石となり、江戸時代もこれが寺領として確定する。
太田城水攻め
雑賀荘は上方勢により占領されたが、太田左近宗正を大将になおも地侍ら五千人[89]が日前国懸神宮にほど近い宮郷の太田城に籠城した。3月25日、中村一氏・鈴木孫一が城を訪れ降伏勧告を行ったが、城方は拒否した。
小雑賀の戦闘
太田城以外にも、雑賀では複数の城が抵抗を続けていた[90]。佐武伊賀守は的場源四郎と共に小雑賀の城[91]に籠城し、三十二日間にわたって守り抜き、太田城開城後に続いて開城したという。
太田城攻防戦
太田城水攻めの絵図太田城はフロイスが「一つの市の如きもの」と表現したように、単なる軍事拠点ではなく町の周囲に水路を巡らした環濠集落である[92]。この城を秀吉は当初兵糧攻めで攻略する予定だったが、兵糧攻めでは時間がかかりすぎる[93]ために水攻めに変更した。強攻ではなく持久戦を選択した理由として、兵力の損耗を防ぐこともさることながら、犠牲が増えることによって苦戦の印象が広まるのを回避するためだったと思われる。これに先立つ和泉千石堀城の戦いでは、城の煙硝蔵が爆発したために一日で攻略できたものの攻城側にも多大な犠牲が出ており、太田城でその二の舞を演じることを恐れたと考えられる。
また一面では、本来太田城を守る存在であった水を使って城を攻めることで、水をも支配する自らの権力を誇示しようとしたとも考えられる。水攻め堤防は全長7.2km、高さ7mに及んだ。
上方勢は秀吉自身を総大将、秀長と秀次を副将として、その下に細川忠興・蒲生賦秀・中川秀政・増田長盛・筒井定次・宇喜多秀家・長谷川秀一・蜂須賀正勝・前野長泰などの編成だった[94]。3月28日から築堤が開始された。この築堤工事の途中、甲賀衆の担当部分が崩れたため、甲賀衆が改易流罪となった。4月5日までには完成し、注水が始まる。一方城の北東には以前から治水及び防御施設として堤(以下これを横堤と呼ぶ)が築かれており、籠城が始まると城方によってさらに補強された。横堤の存在によって城内への浸水は防がれた。
4月8日、横堤が切れて城内へ浸水し、城方を混乱に陥れた。ところが横堤が切れたために水圧に変化が生じたことで、翌9日には逆に水攻め堤防の一部が切れ、寄手の宇喜多秀家勢に多数の溺死者が出た。籠城側はこれを神威とみなした[95]。攻城側は直ちに堤防の修復にかかり、13日までには修理を完了させた。17日に織田信雄、18日に徳川義伊と石川数正が雑賀を訪れる[96]。
秀吉は当初、水攻めが始まれば数日で降伏させられると考えていた[97]。しかし一度破堤したことで籠城側は神威を信じ、粘り強く抵抗していた。4月21日、攻城側は一気に決着をつけるべく、小西行長の水軍を堤防内に導く。安宅船や大砲も動員してのこの攻撃で、一時は城域の大半を占拠した。だが城兵も鉄砲によって防戦し、寄手の損害も大きく撤退した。攻略には至らなかったがこの攻撃で籠城側は抗戦を断念し、翌22日、主だった者53人の首を差し出して降伏した[98]。53人の首は大坂天王寺の阿倍野でさらされた。また主な者の妻23人を磔にかけた[99]。その他の雑兵・農民らは赦免され退城を許された。
秀吉は降伏して城を出た農民に対し、農具や家財などの在所への持ち帰りを認めたが、武器は没収した。これは兵農分離を意図した史料上初めて確認できる刀狩令と言われる[100]。宮郷の精神的支柱だった日前宮は社殿を破却され、社領を没収された[101][102]。
戦後
日高・牟婁郡の一部では依然抵抗が続いていたが、その他の地域はおおむね上方勢により制圧された。紀伊平定後、秀吉は国中の百姓の刀狩を命じる。紀伊一国は羽柴秀長領となり、秀長は紀伊湊に吉川平介、日高入山に青木一矩、粉河に藤堂高虎、田辺に杉若無心、新宮に堀内氏善を配置した。また藤堂高虎を奉行として和歌山城を築城し、その城代に桑山重晴を任じた。秀長による天正検地は天正13年閏8月から始まり、翌々年の同15年(1587年)秋以降に本格化する。
和議と謀殺
4月末、湯河直春は反攻に転じたため、これに対応するため四国征伐軍の一部が割かれ紀伊に差し向けられた。9月24日、榎峠の合戦で湯河勢は敗れて山中へ引き籠った。だが同月末には再度攻勢に出て、討伐に当たった杉若無心・桑山重晴・美藤(尾藤)下野守らは苦戦を強いられた。結局上方勢は湯河氏らを攻め滅ぼすことはできず、和議を結び湯河氏らの本領を安堵した。
翌天正14年(1586年)、湯河直春は死去した。直春の死については毒殺説[103]と病死説[104]がある。