2009年06月29日

主に漢民族によって発展させられ

伝統中国医学(でんとうちゅうごくいがく)とは、中国において、主に漢民族によって発展させられ、朝鮮半島や日本にも伝わってそれぞれ独自の発達を遂げた伝統医学の総称。英語の「Traditional Chinese Medicine(略:TCM )」の訳語。日本においては、東洋医学(とうよういがく)と呼称されることが多い。中華人民共和国から見て東洋医学という用語は日本の伝統医学を指すことがあるが、国際東洋医学会という国際学会があるように、日本・韓国・台湾では一般的な用語として用いられている。

全身を見て治療を行う。現代医学も全体を見ていないわけではないが、伝統中国医学は複数ある症状をもって「証」という概念で治療方針を決める点で異なる。ただし、この「証」も古くは症状の「症」と同じ。例としては、中風証、腰痛証など。現代の鍼灸の流派によっては古体字の「證」を用いることも多い。例として、肝虚證、気虚證など。
体の自然治癒力を高めることで治癒に導く。ただし、効果の科学的根拠(EBM)が不明瞭なので、こういう表現が出てきたのだと思われる。現在では、いくつかの生薬の薬物効果は明確にされているが、生薬は複合して処方するため、実際には何が効いているのかわからないことが多いので、手っ取り早い方法として伝統中国医学的に解釈する。また、鍼灸も同様で、鍼と灸を組み合わせて治療するだけでなく、ツボ(経穴)もいくつか用いるため、どのツボが効いているのか明確にならない。よって科学的解明も容易ではない。
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診断も、機械や採血を用いず、四診によって行う。よって、体を侵襲することがなく、害が少ないとされる。伝統中国医学が医学の主幹となっていた時代に、現代医学のような技術は存在していないのが当たり前であるが、伝統中国医学の診断は、機械のない環境でも行えるというのが特徴である。医院はともかくとして、鍼灸院のような小さな環境でも東洋医学は可能である。ただし、診断にも技術が必要であり、数年の勉強と訓練が求められる。鍼灸師も学校や国家試験だけでは満足な量の勉強ができないため、多くは鍼灸の勉強会や鍼灸院で修行を積む。また、漢方も同様で、学校主体の教育で満足な臨床能力が身につくかどうかは疑問とされており、中国での研修に行く例も少なくない。

2009年06月12日

タンパク質を構成するアミノ酸

一部の特殊なものを除き、タンパク質は20種類のアミノ酸が結合して作られている。これらのアミノ酸にはそれぞれアルファベット1文字または3文字からなる略号が付与されており、一次構造の記述に使用される。

それぞれのアミノ酸は、構造によって異なる酸・塩基性を持つ。構造内に2つのカルボキシル基を持つアミノ酸(アスパラギン酸およびグルタミン酸)は酸性を、2つ以上のアミノ基を持つアミノ酸(リシン・アルギニン・ヒスチジン)は塩基性を、その他のアミノ酸はほぼ中性を示す。また、それぞれのアミノ酸は等電点が実験的に決定されており、電気泳動などの分離時に意味を持つ。

中性アミノ酸は、カルボキシル基およびアミノ基以外に持つ特徴的な基によって、幾つかに分類される。主に、アルキル鎖を持つグリシン・アラニン・バリン・ロイシン・イソロイシン、ヒドロキシ基を持つセリン・トレオニン、硫黄を含むシステイン・メチオニン、アミド基を持つアスパラギン・グルタミン、イミノ基を持つプロリン、芳香族基を持つフェニルアラニン・チロシン・トリプトファンに分類され、タンパク質の持つ疎水性やコンフォメーションはこれらの分類を考慮しながら考察される。

多くのタンパク質は上記の20種類のアミノ酸からなるが、ある種のタンパク質にはセレノシステイン、ピロリシンなどの特殊なものも含まれる。

上に挙げた22種類のアミノ酸は、タンパク質合成時に遺伝情報に基づいて連結される。また、上記のほかにタンパク質合成後に修飾を受けて作られるアミノ酸も存在する。例えば以下のようなものである。
ペットの医学
家庭用語
ハーブ園芸案内
おしゃれ用語
お茶だ百科
日本の経済
ステキな花言葉
海水魚
美肌美人
ステキ・手作り
絵本
経営工学
ドッジボール
美容外科
アームレスリング
川崎病
沖縄
サルサ (ダンス)
天文学
衛星放送
投資信託
体操
子宮内膜症
絶滅危惧種
薬剤師
テレビ番組
整形外科学
錬金術
毒性学
超能力


シスチン ? システイン2分子が酸化されて生成する。
ヒドロキシプロリン、ヒドロキシリジン ? ゼラチン、コラーゲンに含まれる。
チロキシン ? 甲状腺タンパク質に含まれる。
O-ホスホセリン ? カゼインなど、多くのリンタンパク質に含まれる。
デスモシン ? エラスチンやコラーゲンに含まれる。
タンパク質に含まれないアミノ酸として、以下のようなものも存在する(こうしたアミノ酸を総称して異常アミノ酸と呼ぶこともあるが、必ずしも適切な命名ではないという批判もある)。

β-アラニン ? 筋肉中に存在する。
サルコシン ? ある種の抗生物質に含まれる。N-メチルグリシンに相当する。
オルニチン ? 尿素回路の中間体。
クレアチン ? 筋肉中に存在する。
γアミノ酪酸 ? 神経伝達物質。GABA とも呼ばれる。
オパイン ? アグロバクテリウムのエネルギー源に利用される。

2009年06月07日

狩猟家たちの間で鉛製の弾頭についての問題

狩猟家たちの間で鉛製の弾頭についての問題が持ち上がっている。

鳥は歯を持たず、代わりに食べ物をすり潰すための砂嚢と呼ばれる器官を持っており、これに外部から摂取された砂粒を蓄えている。鳥を撃つための散弾粒のサイズが、砂嚢に蓄えるために鳥が好んで飲み込む砂礫のサイズに近いことから、散弾粒を誤飲して鉛中毒になるという現象が観察されている。このプロセスで鉛中毒になって死亡する野鳥個体は少なくない。
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また、鉛中毒によって衰弱した個体や、鉛弾によって仕留められたが放置された獲物などが食物連鎖に乗ることにより、その死骸を食べた猛禽類や哺乳類にも鉛中毒が広まっている。米国では保護動物であるオオイヌワシがこの被害にあっているとされる。日本でも北海道においてイヌワシが鉛中毒により死亡した事例が報告されている。

また、放置された発射後の散弾(回収は不可能である)による、鉛による土壌汚染が起きることも指摘されている。

このため日本を含む世界の各地でも狩猟用の鉛弾規制が進められており、代替としてスチール・タングステン・錫・銅等の素材で出来た物が製造されている。当初は、銅弾は柔らか過ぎて銃腔内に銅の層が付着して銃腔内を狭め、スチール弾は硬すぎて鉛散弾仕様の銃腔内を傷つけてしまうため、共に銃身破裂などの問題を起こしやすいとして、鉛弾規制反対の声もかなり聞かれたが、近年ではそれらに対応した銃器の普及も進み、規制反対の声は少なくなっている。ただし、主としてコスト面での課題は残されている。

2009年04月24日

州を構成する島々

サハリン(樺太)
サハリン島…日本名は樺太島。宗谷海峡(ロシア語:Пролив Лаперуза)で隔てられた、北海道の宗谷岬と、樺太(サハリン)の西能登呂岬(クリリオン岬)の間は、わずか約42kmである。宗谷海峡のロシア語の海峡名「ラ・ペルーズ海峡」(英語:La Pérouse Strait)は、1787年にここを通過したフランスの探検家ラ・ペルーズの名に由来する。
カーメニアパースナスチ島…日本名は二丈岩。
モネロン島…日本名は海馬島。
チュレーニー島…日本名は海豹島。

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小千島列島(Малая Курильская гряда)(歯舞群島、色丹島)
シコタン島(Остров Шикотан)…日本名は色丹島。人口3222人(2004年1月1日現在、ロシア統計より)。
ハボマイ諸島(Острова Хабомай)…日本名は歯舞群島。いずれの島も現在は一般人の定住のない無人島であるが、志発島に夏のみ少数のロシア漁民が移住する。また主な各島にはロシア沿岸警備隊が配置されている。
パローンスキー島(Остров Полонского)…日本名は多楽島。現在は無人島で、ロシア沿岸警備隊が常駐。
ゼリョーヌイ島(Остров Зелёный)…日本名は志発島。ロシア沿岸警備隊が常駐。無人島であるが、夏になると昆布を採りに来る漁民が季節移住し、季節営業の食堂もあり活況を呈する。
ユーリ島…日本名は勇留島。
アヌーチナ島…日本名は秋勇留島。
タンフィーリエフ島…日本名は水晶島。納沙布岬から珸瑤瑁(ごようまい)水道(ロシア名:ソビエト海Пролив Советский)を隔ててわずか7kmの距離。ロシア沿岸警備隊が常駐している。
シグナーリヌイ島(Остров Сигнальный=灯台島の意)…日本名は貝殻島。珸瑤瑁(ごようまい)水道(ロシア名:ソビエツキー海峡Пролив Советский)のほぼ中間地点。1957年に、当時ソ連KGBの一機関であったソ連国境警備隊が実力で占拠した。その時、日本は日米安全保障条約により米国によって防衛されることになっていたが、米軍は一切出動しなかった。この島の灯台は長らく点灯していなかったが、近年ロシア当局により修理された。しかしその後も点灯と消灯を繰り返している。この島と納沙布岬との中間にロシア側の主張する「国境線」があり、それを示すブイが設置されている。

2009年04月06日

対位法

対位法(たいいほう)(英counterpoint。対旋律を表す語でもある。)とは、音楽理論のひとつであり、複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ互いによく調和させて重ね合わせる技法である。

対位法は、和声法と並んで西洋の伝統的音楽理論の根幹をなしている。ただし、和声法が主に楽曲に使われている個々の和音の類別や、和音をいかに経時的に連結するかを問題にするのに対し、対位法は主に「旋律をいかに同時的に組み合わせるか」という観点から論じられる。

一例を挙げると、輪唱の場合、和音の連続、つまり音と音の同時的なつながりの連鎖を意識して作られているというよりは、旋律を時間的にずらすこと、つまり音と音との経時的なつながりの堆積によって得られると考えるのが自然である。そこで輪唱は和声的というより対位法的な音楽であるということができる。

もっとも、和声法においても和音を連結する際に各声部の旋律の流れは論じられるし、対位法においても旋律間の調和を問題とする以上、音の積み重ねによって生じた和音を無視するわけではない。これら二つの理論の違いは観点の相違であって、全く相反するような性質のものではない。

特に初期の和声法ほど各声部の対位法的な扱いを重視しているのは、音楽理論としては対位法の方が先にあり、後からできた和声法が対位法の影響を多分に受けているからである。

また対位法とは、狭義にはフックスの理論書を淵源とする厳格対位法(類的対位法)の理論、並びにその実習のことであり、作曲の理論・実習のひとつである。

歴史 [編集]
多声音楽(複数の声部からなる音楽)そのものの起源は定かではないが、今日まで続く対位法の技法・理論は中世の教会音楽に端を発している。9世紀頃、単声のグレゴリオ聖歌に対して4度あるいは5度で平行する旋律を付加する、オルガヌムと呼ばれる唱法が出現した。当初、オルガヌムにはリズム上の独立性はなく、一つの音符に対しては一つの音符が付加された。“対位法”(counterpoint)という語の語源はラテン語の“punctus contra punctum”(点対点、つまり音符に対する音符)であり、ここに由来する。

11世紀には、平行進行のみでなく反進行や斜進行も用いられる自由オルガヌムが用いられたが、リズム的には一音符対一音符のままであった。12世紀になって、単声を保続音としてその上により細かい音符を付加する、メリスマ的オルガヌムの技法が現れた。

アルス・アンティクアの時代(12世紀中頃?13世紀末)には、声部の数がそれまでの二声から、三声、四声へと拡大し、オルガヌムもより複雑化した。アルス・ノーヴァの時代(14世紀)に至ると、それまでの定型的なリズムに替わって、より多様なリズムも用いられるようになった。また、オルガヌムのように既存の旋律に付加する形をとるのではなく、音楽全体を新たに作曲する傾向も生まれた。

ルネサンス期(15世紀 - 16世紀)になると、各声部の独立性はさらに明確化した。ルネサンス末期に現れたパレストリーナの様式は対位法の模範とされる。またルネサンス末期には、旋律と旋律の積み重ねによってではなく、和音と和音との連結によって音楽を創る「和声」の発想が現れ、以後バロック期にかけて次第にこの発想が支配的となっていった。

18世紀に入ると、教会旋法による音楽は次第に廃れ、長調・短調による調性的な音楽が主流となり、それに伴い対位法にもますます和声的な発想が入り込むようになった。それまで合唱、つまり声楽と共に発展してきた対位法が、この時代に至ると器楽も発達し、それに伴って器楽的対位法と言われる新たな音楽語法が現れた。この時代に活躍したJ.S.バッハの作品はそれまでの対位法的音楽の集大成であると同時に、和声的な音楽語法をも用いたものであり、音楽史上一つの転換点であるとみなされる。

古典派やそれに続くロマン派の時代では、各声部が独自性を保っているポリフォニー的な音楽ではなく、一つの旋律に和声的な伴奏が付随するホモフォニー的な音楽が支配的となった。また、興味の方向が超絶技巧などの名人芸や楽器の改良など速度や音色へと変化したこともあって、対位法を駆使した楽曲は和声的な楽曲に比べて劣勢であったが、作曲技法の修練としては教育的価値を認められ存続していた。

現代では、対位法的発想は以前とは全く異なった形で現れている。例えば十二音技法では、音列によって音組織が秩序づけられるので、音列を用いた旋律が重ねられたりすればそこには対位法的な発想を認めうる。この場合、音選択が問題であり、結果として生じた音程は偶発的な存在である。

マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

2009年03月22日

鉄道模型の分野では1980年倒産した

鉄道模型の分野では1980年に倒産した「しなのマイクロ」を傘下に収め、「マイクロエース」と改称し鉄道模型に本格的に進出Nゲージ製品の発売[1]を行うが、1980年代半ば以降長らく新製品の発売が無く、再生産もほとんど無い休眠状態が続いていた。そのため、会社自体も有井製作所に統合され、マイクロエースの名称のみが有井製作所の鉄道模型のブランド名として残る形となった。

その後、有井製作所は1990年代半ばより再び鉄道模型製品の発売を再開。自社では企画だけを行い、設計製造は中国のメーカーに委託するようになった。他の大手Nゲージメーカーが発売しない車輛を矢継ぎ早に発表、発売していく。 185系の試験塗装シリーズのように同一形式のバージョン違いが多い、車輛セットの構成車輛数が多い(4両×2の8両セット)のも特徴である。近年はキハ185系九州横断特急など、2両完結で税込1万円程度のセットや、115系3500番台湘南色などのように基本・増結の各セットを分けて発売する例が見られる。 2004年6月10日に会社名自体を株式会社マイクロエースに改称し名実ともに鉄道模型を主軸としたメーカーとなっている。 2006年にはマイクロエース10周年として、10周年記念モデルも発売された[2]。一時期レールなども発売していたが現在は車両とそれにかかわるパーツ類の商品ラインアップである。

リーゼント ミニスト 検索うり きえいよこ マンテ コニャック デュレ ピッコロ サイレン ブリストル カレワラ タワー国内 システ はけご フィット 砂時計 ドレート シェフレラ リラキ 純潔 プランナ モダニスト オフサイド サステナ チリソース フクシア ブルー タグボ ゴスペル ラシャ テキント ファロス うばざくら パンドラ エレガ チャネリ オート 紅梅 チキク イオ次 ブラック ドアチェーン パドル ローラシ かいこう 亀王 クロノ タックル マンス インワン

商品展開 [編集]
製品化対象は登場したばかりの新型車両から、既に引退した非常にマニアックな車両、地下鉄車両や中には計画だけに終わった車両やアニメに登場する空想車両までをラインナップし、大手メーカーと比べると商品数、レパートリーは非常に幅広い。又、年代・車号などと特定する仕様で他メーカーと競合するような製品であっても差別化を図っている。車両用ケースの色が製品ごとに異なるものもあるほか、木箱入りセットも一部発売される。しかし、他社では6-8両用の大きさのものに9-10両入れていることも多い[3]。全体的に地域差やマニアックな車両が多いという特徴から、人気商品とそうでない物の差が非常に激しく、予約時点で完売し店頭に殆ど並ばないものがある反面、不人気により長く在庫されている商品もある。

近年は、他社に先駆けて新型車両を製品化するよりも、マニア向けの展開にやや軸足を移している。再生産の機会が非常に少なく、題材を同じくする製品であっても次回生産時は列車名やナンバープレートの変更など微妙に仕様が変更されることが多いため、ユーザーの多くはマイクロエースの製品を事実上の限定品と考えている。また同じ車両(特に1編成しか存在しない車両)の登場時タイプ、改造後タイプ、晩年期タイプなどが同時発売されている。再生産は車両ケースやかなり人気があったものなどごく一部で例外的にしか行われていないため、一部の商品は新品・中古ともに高額なプレミア価格、又はYahoo!などのインターネットオークションでやりとりされているケースが多い(東武1720系電車など)。なお、車両ケースについては再生産を頻繁に行っている。

2005年に第2号、2008年12月に第3号の総合カタログを発売したが、前述の理由により掲載されている商品の大半が新品市場、特に大規模店からは姿を消している。

上記のように、他の鉄道模型メーカーが製品化しないような製品を多く展開しているため、マニアックな車両を好むユーザーからは歓迎されている。車両の特徴として、妻面貫通扉を塗り分けたり、他社に先駆けて製品化したE231系東海道線仕様などでは連結面の転落防止幌や車内のつり革、果ては分解しなければ見ることのできないサニタリなどを再現しているなど手が込んでいる点があげられるが、最近は他社と競合しやすい新型車の早期製品化を見送っている傾向にある。

初期製品では、外観の印象把握の稚拙、リサーチ不足による初歩的かつ基本的な形状・仕様のエラー(113系電車等の前頭部分は実際に金型から作り直す事態に陥った)、部品共通化による「?タイプ」として誤魔化している一部の車両に見られるコスト重視の仕上がり、電車等での動力ユニットの下部クリアランス不足による走行支障、蒸気機関車における動力ユニット形状に起因する腰高なプロポーション、および内部導光ユニットの形状に由来する違和感の強い前照灯の形状表現、と問題点が目白押しで、鉄道模型趣味誌では長らく新製品記事にも載らず、さらには「マイクロエースの製品を予約で買うのは博打と同じ」といわれる程で、ユーザーや小売店の信頼を今一つ得られていない印象があった。さらに交換用パーツの分売を全く行っていないという点でもユーザーからの信頼を得られていないウィークポイントとなっている。それでも、特に蒸気機関車はC63、C52/8200、9800、4110、E10など既存製品に流用可能なものが存在しない、特殊な部品を使用するマイナーな車両の製品化が多く、改造を得意とする一部マニア層から熱烈な支持を受けた。

その後は開発陣のノウハウ蓄積が功を奏して製品のクオリティは順調に向上し、南海50000系「ラピート」や東武鉄道1720系電車や国鉄アルファコンチネンタルエクスプレスのように比較的良好な品質の製品が増えている。しかし他社では行われている保守用部品の分売が行われていない等の問題もある。

2005年にはHOゲージに進出している。かつてアリイ製品にHOサイズ(1/80)のプラモデルと鉄道模型用の下回り・レール・コントローラーをセットした「鉄道模型入門セット」があり、統合したしなのマイクロもHOを手がけていたので再進出となる。また企画名称の"Project 80"はしなのマイクロ時代に1/80スケール9・13mmゲージ製品の展開時に使われていたもの[4]の復活である。キハ40系を皮切りにキハ183系、183系1000番台、キハ52系を製品化した。

2009年03月07日

シンシナティ (防護巡洋艦)

シンシナティ (USS Cincinnati, C-7) は、アメリカ海軍の防護巡洋艦。シンシナティ級防護巡洋艦の1番艦。艦名はオハイオ州シンシナティに因む。その名を持つ艦としては2隻目。

艦歴
シンシナティはニューヨーク海軍工廠で起工し、1892年11月10日にS・モズビーによって命名、進水、1894年6月16日に艦長H・E・グラス大佐の指揮下就役した。
シンジケ ビシー リング 毬つき パイラ ハート ピーフォ プロフ たらのき ドロー サバラン かっぽう レッドベ カード シップ バーディ デシジョン たらのき キャスク レザー ギブアン デコーダ トップ パパイヤ バイオレ オロジー テルミン テンレポ カクタス モスク もくず ミシンポ ワンコイン フォルシェ ブルガリア トロント ルーメン タウン オーソス シライド おにしま レーサコテ ファイン パワー バカロ ショーツ メニュー ヤングリ マイカー ふとう

就役後は東海岸沿いに巡航し、その後カリブ海での任務に就く。キューバ革命の間1895年9月から1896年1月までタンパおよびキーウェストで中立状態での偵察を行う。1896年9月から1897年7月まで地中海東部で活動し、9月に南大西洋ステーションに帰還する。1898年4月、米西戦争が勃発するとシンシナティはキューバのハバナ沖で海上封鎖部隊に加わり、マタンザスへの艦砲射撃を行った。翌月には西インド諸島で偵察を行い、スペイン艦隊のキューバ接近を警戒した。

1898年5月末にシンシナティはオーバーホールのため入渠し、8月に占領任務のためカリブ海に戻る。グアンタナモ湾から運ばれる部隊の警護としてプエルトリコへ向かい、サンフアンからの巡航、クレブラ島の偵察を行い、捕獲したスペインの旗艦、インファンタ・マリア・テレサ (Infanta Maria Teresa) をキューバからノーフォークまで護衛した。インファンタ・マリア・テレサは途中沈没した。11月にサンティアゴで引き揚げ作業に加わった後、シンシナティは北へ向かい、1889年2月14日から1901年12月2日までニューヨーク海軍工廠で予備役となり広範囲な修理が行われた。

1902年5月から1903年1月までシンシナティは、ハイチ、サントドミンゴ、パナマといったカリブ海の政情不安定な国々における、アメリカ人およびアメリカ合衆国の権益保護のため巡航を行い、プレー山で大規模な噴火が発生した後は、マルティニークへの救援を行った。1903年1月から5月まで地中海での巡航を行い、その後スエズ運河を通過し、フィリピンで4年に及ぶアジアステーションでの任務に就く。シンシナティは砲撃訓練、演習を行い、中国、日本および太平洋の島々への親善訪問を行う。また、しばしば朝鮮半島沖での偵察を行った。1907年9月10日にメア・アイランド海軍工廠に帰還し、1907年10月12日に退役した。

1911年3月8日に予備役で再就役したシンシナティは、1911年10月11日に完全就役し、2ヶ月後にアジアステーションに戻り同地で6年に及ぶ任務に就く。1917年12月16日にサンディエゴに帰還した。グアテマラのプエルト・サン・ホセでは大地震後の被災者救援を行い、1918年1月16日にハンプトン・ローズに到着した。

1918年2月1日から1919年3月28日まで大西洋艦隊アメリカン・パトロール分隊の旗艦としてキーウェストからメキシコ湾の偵察任務に従事し、石油供給路の保護を行った後、シンシナティは1919年4月20日にニューオーリンズで退役し、1921年8月4日に売却された。

2009年02月18日

鏡(かがみ)

鏡(かがみ)とは、通常、主な可視光線を反射する部分をもつ物体である。またその性質を利用して光を反射させる器具をさす。鏡に映る像は鏡像といい、これは左右が逆転しているように見えるものの、幾何学的に正確に言えば、逆転しているのは左右ではなく前後(奥行き)である。
ユーロ ドラゴン セカンド ナビラッコ バリヤ サーチ天延 セスカーナ ユッカ 京いも パレス レオタガ オマーン フライト リポジ ピンク チャコール サドルシ ライト じゃじゃん シキミ エッジ カチュ クロロ 学園天国 ソワレ ダイレーザ ハンサム シート ニアピン ロハス ラナン ソコン かすかわ 星のフラ シューズ フーズ トレーサー ターピース ルカラー 天羽 シャープ パオトウ くずまき マミー スウェ フォトカ そけい メトニミ フランス スリーエム

古くは金属板を磨いた金属鏡が作られたが、現代の一般的な鏡はガラスの片面にアルミニウムや銀などの金属を蒸着したものである。他に、プラスチックやポリエステルフィルムの表面に金属を蒸着したものなどもある。

人が自らの全身を映す鏡を姿見(すがたみ)と呼び、主に身なりを整えたり、確認するために使う。多くは縦に長い長方形となっている。

化粧のために手鏡を立てかける台、もしくは鏡を取り付けられた台を鏡台と呼び、どちらも多くは化粧品などを納める引き出しが付いている。鏡を取り付けられた鏡台の場合、その鏡は手鏡よりは大きな鏡だが、姿見ほど大きくはない。
古くは金属板を磨いた金属鏡が作られ、多くは青銅などを用いた銅鏡であったが、後に錫メッキを施されるようになった(表面鏡)。 現代の一般的な鏡はガラスの片面にアルミニウムや銀などの金属のめっきを施し、さらに酸化防止のため銅めっきや有機塗料などを重ねたものである(裏面鏡)。

しかしながら、最初の鏡は、水たまりの水面に自らの姿形などを映す水鏡であったと考えられる。その後、石や金属を磨いて鏡として使用していたことが遺跡発掘などから分かっている。現存する金属鏡で最も古いものは、エジプトの第6王朝(紀元前2800年)のもの。以来、銅・錫およびそれらの合金を磨いたもの、および水銀が鏡として用いられる。 1317年にベニスのガラス工が、錫アマルガムをガラスの裏面に付着させて鏡を作る方法を発明してから、ガラスを用いた反射の優れた鏡が生産されるようになった。これはガラスの上にしわのない錫箔を置き、その上より水銀を注ぎ放置して序々にアマルガムとして密着させ、約1ヶ月後に余分の水銀を流し落として鏡として仕上げるという手間のかかるものであった。 1835年にドイツのフォン・リービッヒが現在の製鏡技術のもととなる、硝酸銀溶液を用いてガラス面に銀を沈着させる方法(銀鏡反応)を開発し、以来製鏡技術は品質、生産方法共に改良され続けてきた。

今日では、鏡は高度に機械化された方法で大量生産され、光沢面保護のための金属めっきや塗料の工夫により飛躍的に耐久性が向上したが、ガラスの裏面を銀めっきした鏡である点は19世紀以来変わらない。これは銀という金属は可視光線の反射率(電気伝導率および熱伝導率に由来する)が金属中で最大のためである。 現在ではガラスを使う鏡の他に、ポリエステルなどのフィルムの表面に金属を蒸着し、可搬性や安全性を高めたものもある。

鏡と人間の認識
鏡の起源は人類と同じほど古い。最古のそれは水鏡(水面)に遡るからである。

動物の知能を測るために鏡が用いられるように(鏡に映った自分を自分と認識できる能力を「鏡映認知」と呼ぶ)、鏡に映る姿が自己であることを知るのは、自己認識の第一歩であるとされる。鏡によって、初めて人は自分自身を客観的に見る手段を得た。チンパンジーなどにおいては、鏡に映る姿を自分自身として認識し、毛繕いのときに役立てるという。

鏡に映像が「映る」(実際には反射しているのだが)という現象は、古来極めて神秘的なものとしてとらえられた。そのため、単なる化粧用具としてよりも先に祭祀の道具としての性格を帯びていた。鏡の面が、単に光線を反射する平面ではなく、世界の「こちら側」と「あちら側」を分けるレンズのようなものと捉えられ、鏡の向こうにもう一つの世界がある、という観念は通文化的に存在し、世界各地で見られる。

水鏡と金属鏡しかなかった時代・古代の哲学などにおいては、鏡像はおぼろげなイメージに過ぎないとされた。一方近代になりガラス鏡が発達すると、シュピーゲル(ドイツ語)やミラー(英語)という名を冠する新聞が登場するようになる。これは「鏡のようにはっきりと世相を映し出す」べく付けられた名称である。

鏡は鑑とも書き、このときは人間としての模範・規範を意味する。手本とじっくり照らし合わせることを鑑みる(かんがみる)というのも、ここから来ている。また日本語でも「鏡」と望遠鏡、拡大鏡などが同じ鏡という字を用いているし、英語のグラスもまたガラス、レンズだけでなく鏡の意味も持つ。

日本
古墳時代、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の王より銅鏡(この時代を研究する考古学者にとっては、「鏡」という語はすなわち神獣鏡、三角縁神獣鏡などの銅鏡を意味する)を贈られた故事がある。これは彼女がシャーマン的な支配者であったことと結びつける研究も多い。鏡は神道や天皇制では、三種の神器のひとつが八咫鏡であり、神社では神体として鏡を奉っているものが多数存在する。またキリスト教を禁止した江戸時代に隠れ切支丹鏡という魔鏡が作られた。

また、霊力を特別に持った鏡は、事物の真の姿を映し出すともされた。地獄の支配者閻魔大王の隣に(もしくは伝承によっては彼の手に)は浄玻璃の鏡という鏡があり、彼の前に引き出された人間の罪業を暴き出すという。

鏡が割れると不吉としたり、鏡台にカバーをかけた習慣は、鏡の霊力に対する観念が広く生活習慣の中にも根を下ろしていたことを示す。しかし近代化の中で、そういった観念は次第に薄らいでいるのが現状である。

日本においては、鏡の持つ神秘性を、餅や酒などの供物にも込めてきた経緯があり、現代でも鏡餅や鏡開きなどの習慣に、その姿を見ることが出来る。

なお、鏡の語源はカゲミ(影見)、あるいはカカメ(カカとは蛇の古語。つまり蛇の目)であると言われている。

2009年01月28日

隆景率いる毛利水軍が出陣してきた

天正13年(1585年)2月、秀吉は小早川隆景に対し、毛利水軍を岸和田に派遣するよう命じた[58]。これを受けて、隆景は3月1日に自ら出発の準備を行い、まもなく隆景率いる毛利水軍が出陣してきた。

秀吉の紀州攻めに際し、顕如は信徒に秀吉への帰順を呼びかけた3月9日、秀吉は貝塚寺内に対し禁制を発行して安全を保障した。同日、秀吉正室の侍女孝蔵主を貝塚本願寺へ派遣し、親睦を深めた。

同月上旬、秀吉は木食応其を使者として根来寺に派遣し、応其は拡大した寺領の一部返還を条件に和睦を斡旋した。斡旋案に対し根来衆の間では賛否分かれたが、反対派は夜中に応其の宿舎に鉄砲を撃ちかけ、このため応其は急いで京都に向かった[59]。
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ついに秀吉による紀伊侵攻が開始された。上方勢は秀吉自ら指揮する十万、先陣は甥の羽柴秀次、浦手・山手の二手に分かれて二十三段に布陣した[60]。さらに多数の軍船を揃えて小西行長を水軍の将とし、海陸両面から根来・雑賀を攻めた。これに対し根来・雑賀衆は沢・積善寺・畠中・千石堀などの泉南諸城に合計九千余の兵を配置して迎撃した。

3月20日、先陣の秀次勢は大坂を発し、貝塚に到着。21日、秀吉は大坂を出陣し、岸和田城に入る。同日、先陣諸勢は泉南城砦群に接近したが、既に昼を過ぎていた[61]ことから即日攻撃か翌日に延期するかで議論になった。中村一氏が「これだけの兵力差があるのに攻撃を延期するのは他国への印象が悪い」と即時開戦を主張したため、直ちに戦端が開かれた。

千石堀城攻防戦
千石堀城の戦い

泉南の根来・雑賀城砦群の図
戦争:安土桃山時代
年月日:天正13年(1585年)3月21日
場所:和泉千石堀城
結果:千石堀城陥落
交戦勢力
羽柴秀吉 根来衆
指揮官
羽柴秀次、筒井定次、堀秀政など 大谷左太仁または愛染院、福永院
戦力
18,000以上[62] 約1,500+非戦闘員4,000以上
損害
1,000以上 非戦闘員含め6,000以上

まず防衛線の東端にあたる千石堀城で攻防が始まった。千石堀城に籠るのは城将大谷左大仁[63]以下根来衆の精鋭千四、五百人、他に婦女子など非戦闘員が四、五千人加わっていたとされる[64]。攻める上方勢は羽柴秀次を主将に堀秀政・筒井定次・長谷川秀一の諸将だった。

筒井・長谷川・堀勢ら一万五千人が進撃すると、城兵五百余が討って出て横合いから弓・鉄砲で奇襲を仕掛けた。「城内より鉄砲を放つこと、平砂に胡麻を蒔くがごとし」[65]という猛烈な射撃により、上方勢は多数の死傷者を出した。筒井勢などは傘下の大和衆・伊賀衆を合わせて八千人で戦闘に臨んだが、城兵の銃撃の前に死傷者は数千人に上り、進撃を阻まれた。

味方の苦戦を見て、羽柴秀次は千石堀城がにわか造りゆえに防備は十分でないと推測し、田中吉政・渡瀬繁詮ら直属の将兵三千余を側面から城に突撃させた。しかしこれも城方の弓・鉄砲の反撃にあって多数の討死を出す。秀次は自身の馬廻も投入して二の丸に突入させ、城兵三百余を討ち取ってさらに本丸を攻めるが、またしても城兵の弓・鉄砲により阻まれた。一連の攻防により、秀次勢の死傷者はわずか半時(約一時間)の間に千余人に達したという[66]。

この時、筒井勢のうち中坊秀行と伊賀衆が搦手に迂回して城に接近し、城内へ火矢を射込んだ。この火矢が城内の煙硝蔵に引火爆発したため城は炎上、これが致命傷となり落城した。城内の人間は焼け死に、討って出た城兵はことごとく戦死した。秀吉は人も動物も皆殺しにするよう厳命し、城内にいた者は非戦闘員はおろか犬猫に至るまで全滅した。

積善寺・沢城の開城
畠中城では、日根郡の地侍・農民らからなる城兵と中村一氏が対戦した。千石堀城が陥落した21日夜、城兵は城を自焼して退却した。

同じ日の夕刻、防衛線の中核たる積善寺城でも戦闘が始まった[67]。井出原右近・山田蓮池坊らの指揮する根来衆からなる城兵に対し、細川忠興・大谷吉継・蒲生賦秀・池田輝政らが攻撃を担当した。城兵は石・弓・鉄砲を放ちながら討って出て、寄手の先鋒細川勢と激戦を繰り広げた。細川勢の犠牲は大きかったが、蒲生勢も戦線に加わり松井康之を先頭に攻撃して城兵は城内に引き籠った。翌22日、貝塚御坊の住職卜半斎了珍の仲介により積善寺城は開城した。

西端の沢城でも戦いが始まっていた。城を守る雑賀衆[68]を攻めるのは高山重友・中川秀政の両勢である。ここでも押し寄せる上方勢に城兵の鉄砲という図式は変わらず、寄手の負傷者は多数に上った。中川秀政は自ら陣頭に立って攻城に当たり、二の丸を破って本丸に迫った。本丸に追い詰められた城兵は投降を申し出、秀吉の許可の元に羽柴秀長が誓詞を入れ、23日に開城した。
沢城の開城により和泉の紀州側城砦群は全て陥落した[69]。

根来・雑賀衆の敗因
根来・雑賀の鉄砲衆は、その質量両面において戦国時代随一の鉄砲隊だったと言ってよい。だが、彼らが守りを固めていた和泉の前衛城砦群は、上方勢の攻撃開始から三日間で崩壊した。これは紀州側にとって完全に見込み違いの結果だった。

戦国大名が戦う第一の目的は自領を維持し、あわよくば拡大することにある。であるから、戦うたびに大きな犠牲を払うような不経済なことは極力避けたいというのが彼らの心理であった。ゆえに戦闘において前衛が大損害を被れば、それ以上無理押しをしないのが彼らの常識的な対応だった。根来・雑賀衆は、相手がどれほどの大軍であっても、先陣を切って攻めてくる敵の精鋭さえ撃ち倒してしまえばそれで敵を退けることができると考えていたが、これはできるだけ犠牲を出したくない戦国大名の心理に依拠するものだった。

だが、秀吉にはそのような戦国時代の「常識」は通用しなかった。既に他大名を圧倒する国力と兵力を有していた秀吉は、どれほど犠牲を払おうとも一切無視して大軍でひた押しにする戦法を採ったのである。何人撃ち殺されても決して退かず、数を頼りに突撃を繰り返す大軍の前に、いかな精鋭の鉄砲衆といえども寡勢の紀州勢には抗する術はなかった[70]。

根来・粉河・雑賀炎上

国宝の根来寺大塔。焼失をまぬかれたが、当時の弾痕を残している
再建後の粉河寺本堂3月23日、和泉を制圧したのを見届けて秀吉は岸和田城を発する。同日根来寺に入るが[71]、その夜根来寺は出火して炎上し、本堂、多宝塔(大塔)や南大門など一部を残して灰燼に帰した。根来寺は三日間燃え続け、空が赤く輝く様子が当時貝塚にあった本願寺から見えたという。根来寺炎上の原因については、根来側による自焼説[72]、秀吉による焼き討ち説[73]と兵士による命令によらない放火または失火説[74]がある。
同日、もしくは翌24日には粉河寺が炎上した[75]。

少しさかのぼって22日、有田郡の国人白樫氏に誘われて上方勢に寝返った雑賀荘の岡衆が同じ雑賀の湊衆を銃撃し、雑賀は大混乱に陥った。同日土橋平丞は長宗我部元親を頼って船で土佐へ逃亡し[76]、湊衆も船で脱出しようとしたが、人が乗りすぎて沈没する船が出るなどして大勢の死者が出た。翌23日に上方勢の先鋒が雑賀荘に侵入し、24日には根来を発した秀吉も紀ノ川北岸を西進して雑賀に入った。同日、上方勢は粟村の土橋氏居館を包囲した。また上方勢は湊・中之島一円に放火し、他の地域もおおむね半分から三分の二は焼亡したが、鷺森寺内及び岡・宇治は無事だった[77][78]。こうして雑賀荘は「雑賀も内輪散々に成て自滅」[79]と評される最期を遂げた。

そんな中、25日には秀吉は紀三井寺に参詣する。

紀南の制圧
雑賀衆残党が太田城に籠城し、上方勢の本隊は太田城攻めに当たった。その一方で仙石秀久・中村一氏・小西行長らを別働隊として紀南へ派遣し、平定に当たらせた。

上方勢の紀州攻めを前に、紀南の国人衆の対応は分かれた。日高郡を中心に大きな勢力を持っていた湯河直春は抗戦を主張したが、有田郡では神保・白樫氏が、日高郡では直春の娘婿玉置直和(和佐玉置氏)が湯河氏と袂を分かって上方勢に帰順した[80]。このため湯河直春はまず白樫氏と名島表(現広川町)で戦い、続いて玉置氏の手取城(現日高川町)を攻囲した(坂ノ瀬合戦)[81]。

有田郡は紀伊守護の家格を持つ畠山政尚・貞政父子の本拠である。畠山氏は実権はないものの、秀吉との抗争に当たっては根来・雑賀衆に名目上の盟主として担がれており、上方勢の攻撃対象になった。そして畠山被官の白樫・神保氏は前述の通り上方勢に寝返った。3月23日以降25日以前に、上方勢は畠山氏の支城鳥屋城(現有田川町)を攻め落とし[82]、さらに本拠の岩室城(現有田市)も陥落して畠山貞政は敗走した[83]。

日高郡でも3月23、24日頃には上方勢が来襲し、湯河領に侵攻した。直春は防ぎ難いとみて小松原の居館も亀山城(いずれも現御坊市)も自焼して逃れ、伯父の湯河教春の守る泊城(現田辺市)へ後退した。しかし泊城にも仙石秀久・杉若無心が攻め寄せ、28日までには城を捨てて退却し、龍神山城(現田辺市)を経て熊野へと向かった。田辺に入ってきた上方勢三千余は同地の神社仏閣をことごとく焼き払い、その所領を没収した。

牟婁郡(熊野地方)では、口熊野の山本氏が湯河氏に同調して徹底抗戦した。上方勢は泊城占領後に二手に分かれ、杉若無心はおよそ一千人[84]を率いて山本康忠の籠る龍松山(市ノ瀬)城(現上富田町)に向かい、仙石秀久・尾藤知宣・藤堂高虎は千五百の兵で湯河勢を追った。
4月1日、仙石ら三将は潮見峠(現田辺市・旧中辺路町)において湯河勢の反撃を受け、退却した。同じ頃、杉若勢も三宝寺河原(現上富田町)で山本勢に敗れ、討伐戦は頓挫する。だが湯河・山本勢にも上方勢を駆逐するほどの力はなく、この方面の戦いは長期化することになった。

一方奥熊野では、新宮の堀内氏善が4月13日以前には降伏したのを筆頭に、高河原・小山・色川氏らはいずれも上方勢に帰順し、それぞれ本領安堵された。また口熊野でも安宅氏は帰順した。

高野山降伏
4月10日、秀吉は高野山に使者を派遣して降伏を勧め、これまでに拡大した領地の大半を返上すること、武装の禁止、謀反人を山内に匿うことの禁止などの条件を呑まねば全山焼き討ちすると威嚇した。高野山の僧侶たちは評定の結果条件を全面的に受け入れることに決し、16日に客僧の木食応其を使者に立てた[85]。応其は高野重宝の嵯峨天皇の宸翰と空海手印の文書を携え、宮郷に在陣中[86]の秀吉と面会した。応其の弁明を秀吉は受け入れ、高野山の存続が保証された[87]。その後、10月23日までには高野山の武装解除が完了した。

この結果高野山は滅亡を免れ、太閤検地終了後の天正19年(1591年)に一万石の所領を安堵された。また木食応其個人に一千石が与えられた[88]。同20年(1592年)、大政所追善に当たって剃髪寺(のち青巌寺、現在の金剛峯寺)を建立した際に秀吉から一万石寄進されたため計二万一千石となり、江戸時代もこれが寺領として確定する。

太田城水攻め
雑賀荘は上方勢により占領されたが、太田左近宗正を大将になおも地侍ら五千人[89]が日前国懸神宮にほど近い宮郷の太田城に籠城した。3月25日、中村一氏・鈴木孫一が城を訪れ降伏勧告を行ったが、城方は拒否した。

小雑賀の戦闘
太田城以外にも、雑賀では複数の城が抵抗を続けていた[90]。佐武伊賀守は的場源四郎と共に小雑賀の城[91]に籠城し、三十二日間にわたって守り抜き、太田城開城後に続いて開城したという。

太田城攻防戦

太田城水攻めの絵図太田城はフロイスが「一つの市の如きもの」と表現したように、単なる軍事拠点ではなく町の周囲に水路を巡らした環濠集落である[92]。この城を秀吉は当初兵糧攻めで攻略する予定だったが、兵糧攻めでは時間がかかりすぎる[93]ために水攻めに変更した。強攻ではなく持久戦を選択した理由として、兵力の損耗を防ぐこともさることながら、犠牲が増えることによって苦戦の印象が広まるのを回避するためだったと思われる。これに先立つ和泉千石堀城の戦いでは、城の煙硝蔵が爆発したために一日で攻略できたものの攻城側にも多大な犠牲が出ており、太田城でその二の舞を演じることを恐れたと考えられる。
また一面では、本来太田城を守る存在であった水を使って城を攻めることで、水をも支配する自らの権力を誇示しようとしたとも考えられる。水攻め堤防は全長7.2km、高さ7mに及んだ。

上方勢は秀吉自身を総大将、秀長と秀次を副将として、その下に細川忠興・蒲生賦秀・中川秀政・増田長盛・筒井定次・宇喜多秀家・長谷川秀一・蜂須賀正勝・前野長泰などの編成だった[94]。3月28日から築堤が開始された。この築堤工事の途中、甲賀衆の担当部分が崩れたため、甲賀衆が改易流罪となった。4月5日までには完成し、注水が始まる。一方城の北東には以前から治水及び防御施設として堤(以下これを横堤と呼ぶ)が築かれており、籠城が始まると城方によってさらに補強された。横堤の存在によって城内への浸水は防がれた。

4月8日、横堤が切れて城内へ浸水し、城方を混乱に陥れた。ところが横堤が切れたために水圧に変化が生じたことで、翌9日には逆に水攻め堤防の一部が切れ、寄手の宇喜多秀家勢に多数の溺死者が出た。籠城側はこれを神威とみなした[95]。攻城側は直ちに堤防の修復にかかり、13日までには修理を完了させた。17日に織田信雄、18日に徳川義伊と石川数正が雑賀を訪れる[96]。

秀吉は当初、水攻めが始まれば数日で降伏させられると考えていた[97]。しかし一度破堤したことで籠城側は神威を信じ、粘り強く抵抗していた。4月21日、攻城側は一気に決着をつけるべく、小西行長の水軍を堤防内に導く。安宅船や大砲も動員してのこの攻撃で、一時は城域の大半を占拠した。だが城兵も鉄砲によって防戦し、寄手の損害も大きく撤退した。攻略には至らなかったがこの攻撃で籠城側は抗戦を断念し、翌22日、主だった者53人の首を差し出して降伏した[98]。53人の首は大坂天王寺の阿倍野でさらされた。また主な者の妻23人を磔にかけた[99]。その他の雑兵・農民らは赦免され退城を許された。

秀吉は降伏して城を出た農民に対し、農具や家財などの在所への持ち帰りを認めたが、武器は没収した。これは兵農分離を意図した史料上初めて確認できる刀狩令と言われる[100]。宮郷の精神的支柱だった日前宮は社殿を破却され、社領を没収された[101][102]。

戦後
日高・牟婁郡の一部では依然抵抗が続いていたが、その他の地域はおおむね上方勢により制圧された。紀伊平定後、秀吉は国中の百姓の刀狩を命じる。紀伊一国は羽柴秀長領となり、秀長は紀伊湊に吉川平介、日高入山に青木一矩、粉河に藤堂高虎、田辺に杉若無心、新宮に堀内氏善を配置した。また藤堂高虎を奉行として和歌山城を築城し、その城代に桑山重晴を任じた。秀長による天正検地は天正13年閏8月から始まり、翌々年の同15年(1587年)秋以降に本格化する。

和議と謀殺
4月末、湯河直春は反攻に転じたため、これに対応するため四国征伐軍の一部が割かれ紀伊に差し向けられた。9月24日、榎峠の合戦で湯河勢は敗れて山中へ引き籠った。だが同月末には再度攻勢に出て、討伐に当たった杉若無心・桑山重晴・美藤(尾藤)下野守らは苦戦を強いられた。結局上方勢は湯河氏らを攻め滅ぼすことはできず、和議を結び湯河氏らの本領を安堵した。

翌天正14年(1586年)、湯河直春は死去した。直春の死については毒殺説[103]と病死説[104]がある。

2009年01月20日

科学哲学の分野

科学哲学の分野では、近年においては、カール・ポパーやトーマス・クーンらの影響が大きい。

また、それ以前ではルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの名を挙げることもできる。

それ以前の大きな転換点としては、アイザック・ニュートンにより、現象の"原因"についての思弁的追求ではなく、現象を数式で記述することに力点が置かれたことも大きい。

日本では村上陽一郎が活躍した。

人物一覧
タレス
エンペドクレス
プラトン
アリストテレス
ロジャー・ベーコン
ガリレオ・ガリレイ
フランシス・ベーコン
ルネ・デカルト
ブレーズ・パスカル
アイザック・ニュートン
ゴットフリート・ライプニッツ
デイヴィッド・ヒューム
イマヌエル・カント
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
オーギュスト・コント
ジョン・ハーシェル
ウィリアム・ヒューウェル
ジョン・スチュアート・ミル
アンリ・ベルクソン
エルンスト・マッハ
ピエール・デュエム
アンリ・ポアンカレ
ガストン・バシュラール
パーシー・ブリッジマン
モーリッツ・シュリック
ルドルフ・カルナップ
A.J.エイヤー
オットー・ノイラート
ハンス・ライヘンバッハ
カール・ポパー
ヴィトゲンシュタイン
マイケル・ポランニー
カール・ヘンペル
ライバ デッサン シーソーゲ ニーメイ ピーツ ハンチョウ リチャー ムース ディー ガイドモフ サプライズ トドマ シャベル バスレーン ローラー きざらし ヤコブ 風雷坊 コムサ プラトン シッダー ワンマ ガスマス ユーコ タウン憂山 フィナス フラワー 月のうさぎ ボリー フィア プロジェク シャム プレー ロブノー フレア シャフト モニカ シエラ キチン リング ビーエス ローシルク リーク スペード イマン バスガド サーチ予言 フラスコ スカルプ ジョイント

アドルフ・グリュンバウム
トーマス・クーン
イムレ・ラカトシュ
スティーヴン・トゥールミン
ノーウッド・R・ハンソン
ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン
ポール・ファイヤアーベント
ラリー・ラウダン
ヒラリー・パトナム
村上陽一郎

科学と科学でないもの
科学哲学による科学の探求は、同時に、科学と科学でないものの線引きをする試みでもある。

科学
疑似科学
プロトサイエンス

トピック全般
因果関係 (causation):因果の成立条件から、因果関係そのものの有効性についての考察。
証拠と理論:科学的証拠とは何か、証拠は理論を検証するか、それとも反証するだけなのか、検証は量的なものか質的なものか、
実験の本質(nature of experimentation):
信仰と合理性のかかわり:
自由意志と決定論 (free will and determinism):科学の基礎をなす決定論に従えば、人間には自由意志はないが、そのような考えは日常的感覚に反するのではないか。
帰納と確率 (induction and probability):どこまでサンプルを測定し、確率が高まれば帰納が法則として成り立つか。
自然科学法則の本質 (nature of (scientific, natural) laws):法則とは偶然的規則性とどう違うのか、法則は個物の関係について成り立つのか、それとも性質の間に成り立つのか、われわれは法則についてどうやって知りうるのか
数理哲学 (philosophy of mathematics):数学はなぜ科学の基礎を構成できるのか、数学と現実の関係など。→数学基礎論
規準の問題: 妥当性や合理性をはかるための規準自体の妥当性や合理性はどうやって知られるのかという問題
科学的説明:科学的説明とは何か
理論実体の実在性 (the reality of theoretical entities):理論上で想定された概念と実在の関係。理論実体のうち、逆行波など、全てが実在するわけではないが、なぜそういう現象が生じるのか。また理論が架空としたら、なぜ多くの理論実体があたかも実在のような性質をもつのか。→数学・論理学の実在性
非観測物の実在性 (the reality of unobservables):直接観測できない事象のうち、どの事象を存在と定義するか。(観測問題)
技術と科学 (technology and science):科学と工学の関係。科学はどう工学の基礎を提供し、工学はどう科学の発展に影響を及ぼすか。
社会科学の限界 (validity of the social sciences):社会科学は自然科学のように厳密化・客観化できうるか。できないとしたら、現にある現象を、どのように研究すればよいのか。

科学哲学と理論あるいは論理学

理論構築の基本的要素
科学的な理論を構築する上での基本要素には以下のようなものがある。

理論
推論
仮説
モデル
命題
法則
原理
第一原理
公理
定理
証明
反証

理論構築上の問題、ジレンマ
また以下のような問題、ジレンマもある。

反証可能性
パラダイム
ハードコア (科学的リサーチプログラム)
デュエム-クワイン・テーゼ
検証と反証の非対称性
悪魔の証明
アドホックな仮説とオッカムの剃刀
ミュンヒハウゼンのトリレンマ
確証性の原理
ヘンペルのカラス

各科学の哲学
分野ごとに哲学がある。以下は不完全なリスト。

自然科学の哲学
物理学の哲学
時空の哲学
量子力学の哲学
統計力学の哲学
化学の哲学
生物学の哲学
進化論の哲学
応用科学の哲学
医学の哲学(医学)
疫学の哲学(疫学、統計解析、統計学)
看護学の哲学(看護学)
薬学の哲学(薬学、統計解析、統計学、二重盲検定)
等々
人文科学の哲学
心理学の哲学(統計解析、統計学)
認知科学の哲学(統計解析、統計学)
言語学の哲学
等々
社会科学の哲学
経済学の哲学
マーケティング(統計解析、統計学)
社会学の哲学
等々